梅の木通信
心の話【S先生の日記】


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1 言葉

 日々はありがとうございます。
今日は私たちが毎日々使わせていただいております、言葉について
少し書かせていただきます。
人間にとって御互いに理解し合う為に、言葉は非常に重要であります。
親神が人間に言葉をお許しなされた思いは、
「人と人の意志」「心を接ぐ道具」として、人間に言葉を
お許しになられたのであります。

しかし人間は神の思いがわからず、日々自分勝手に解釈してしまい、
勝手に使っているのであります。
親神の思いからすれば、人間が日々使う言葉の中には常に真実の心が
籠っていなければならないのであります。

しかし、実際に私たちが使う言葉の中に真実の心が籠っているでしょうか?
例え心の籠った言葉であっても、聞く方の人間がその人の言う言葉の意味を、
頭で聞いてしまいますと心が通じなくなってしまいます。

又、言葉は道具でありますから、その道具の使い方を間違えてしまいますと、
時には刃物になったり、凶器になったりして、人の心を傷つけてしまいます。
ですから親神は「切り口上や捨て言葉」は、おくびにも出すやでないでと
戒められているのであります。

言葉は真実と真実、真心と真心をつなぐ大切な道具でありますから、
一言一言を大切に正しく使わせて頂かなくては心と心を通じ合わせる事が
難しくなってしまいます。

例えをおみちの中にとって考えて見ましょう。
おみちでは良く、「日々ありがとうございます」「ご苦労様でございます」と、
挨拶を致しますが、先の言葉は感謝のことばであり、後の言葉は相手に
対する思いやりのことばであります。

しかし、その言葉の中に感謝の心や思いやりの心が籠っているでしょうか?
「日々ありがとうございます」という言葉の内には人間が神や人に対し、
すべてに感謝の心の現れの言葉であり後者の言葉の中に、暑いところ、
又 寒い中、風の中、雨の中、こちらまで運んでくださってご苦労様という思いやり、
つまり相手の方をいたわる心の現われの言葉であるはずであります。

しかし実際に聞いてみると果たしてそういう心が、感じられますでしょうか、
聞く方の心が高いせいでしょうか、なんとなく義務的に言っているように
聞こえてなりません。

一つの例をとって考えて見ましょう。

出前持ちの言葉、「毎度ありー」この言葉の中に感謝の心が
感じられますか?
一般的に良く商売の人が使うこの言葉の元を掘り返してみますと、
「毎度ありがとうございます。」その意味は毎回毎回当店の品物を、
御買い上げくださってありがとうございます。私どもはお客様の使ってくださった
お金の何%かに依って生活させて頂けるのであります。

お客様ありがとうございます。という感謝の心の現われが
「毎度ありー」と略して使われていると思います。
このように言葉は心と心をつなぐ大切な道具なのであります。
ですから道を歩む私たちは生きた言葉、つまり心の籠った言葉を使わせて
いただきたいものです。

言葉一つの使い方に依って、人の心を傷つけたり、いためたり又反対に
相手の心を慰めたり、あたためたり勇めたりいたします。
親神は言葉一つが用木の力、仰せられております様に、用木にては常に
真心の籠った言葉をいつも忘れずに使わせていただくことが最も大切であります。
従って相手の方の心を和ませ、引き立てる真実の言葉、思いやりのある言葉、
素直な言葉、感謝の言葉をたくさん使わせて頂きますと心と心が
だんだんと通じるようになります。

日々の生活の中にも朝の挨拶は元気よく「おはようございます」と、
相手の顔を見てから交わしたいものです。

先に声をかけられたら、七分の徳、後から挨拶を返すは三分の徳と言われますから、
先ず元気よくあいさつをさせていただきましょう。

朝の第一声は非常に大切です。今日一日の出発の言葉であるからであります。

次に返事はいつでも気持ちよく「ハイ」と返事しましょう。
「ハイ」と言う言葉は素直つまり水心の現われですから、
立つより返事が大切であります。
次に感謝の言葉、神や相手の方から労力やその他で恩を受けたら、
心をこめて「ありがとうございます」と言う感謝の言葉を述べましょう。

この三つの言葉を常に忘れず、家庭の中、会社や職場、社会において
沢山使わせて頂きますと、自分自身も家庭も社会もどんどん変わります、
是非共身に着けて下さい。

この様にいくら言葉は大切であっても、嘘と追従はいけません。
その言葉には心が籠っていないからであります。
親神は嘘と追従これ嫌いと仰せられてあります通りですから
気をつけて日々真実の言葉、心の籠った言葉を使わせて頂きましょう。


1985 10 23

2.日の寄進

みかぐらうたの十一下りの四つ「よくを忘れて日のきしん、これが第一こえとなる。」
と、日の寄進について親神が教えてくださっております。
よくと申しますのは、親神が人間心として八埃の中に解かれていることであります。
この欲の心とは、物欲、金欲、色欲というように沢山あり、人それぞれに依って
欲の心も違うのであります。

なぜ親神が欲の心を戒めているかと申しますと、人間はまず神に依って生かされ、
すべてのもの衣、食、住を問わず人間が陽気ぐらしをする様子を見たいと思う神の
意志に依って、用意万端整えられているのであります。

人間にはその事が分からず、又心一つの自由という他のすべてのものは神よりの借り物で
あることが分からない為に欲の心や他の人間心によって心を汚してしまうのであります。

ですから日の寄進と申しますのは、神に対して感謝の心で奉仕させていただく事が
大切なのであります。

例えば一ヶ月健康に暮らさせていただいた、この神に対する感謝の心で、
月に一日でも神の御用を務めさせて頂くこれが日の寄進というものであります。
この感謝の心で奉仕させて頂く事が又、次の月も健康で暮らさせていただく元種と
なっていくのであります。
ですから見上あるいは事情の方であっても、日の寄進をさせて頂くと、
その流す汗の一滴一滴が因縁を切って行く事になりますから、身上も治まり事情も
治まってくるのであります。

日の寄進は神恩感謝の心で奉仕させていただくことであります。

ありがとうございます。  
                             昭和60年10月25日
 3 心について

神は理なり、理は神なりと雛形の教祖様が仰せられました。

神や理とは何かと申しますと、心であり思うと言うことであります。
泥海古記の中に、神は人間の陽気暮らしを見たいと思し召した、
そこで泥の海中を見澄ますと沢山のどじょの中にうを、とみが混ざり居る、
これを人間の種にしようと引き寄せた、云云、とあります。

ここに一つの真理が埋め込んであった様に思います。
つまり人間が何をするにもこの思いという心の働きが一番であり 
それを具体的にどうしたらよいか考えるのが頭であり、これが二番三番が
腹を決めるつまり決心であり四番目が行動であります。

例えば今日は休日だから教会へ行こうと思う。何で行こうか考える、
バスが良いか自家用車にするか、そして帰り買い物するから荷物になるなと考えて
自家用車にしようと腹を決めて自動車を運転する。
これが行動に出る順序であります。つまり心、頭、腹、行動の順であります。

人間の体の中に魂という生命力を宿し込み魂つまり神の思いを長くするか、
短くするかは人間の心の味の良し悪しに依る物であり、
寿命の長短神の支配なりとの、お言葉通り神の思いを人間の心の味しだいで
長生きになったり短命だったりするのです。

それらも皆その人その人の心の味の良し悪しに依って、自分の心で自分に
与えられた神からの生命力を切っていってしまうのであります。

ですから心の使い方が、いかに大切かがお分かりの事と存じます。
この心の使い方にも大別すると二つに別れ、神に適う心使いと神に適わぬ
心使いが多ければ多いほど寿命を縮めてしまうのです。
これと反対に神に適う心使いの多い人はそれだけ徳分が頂けるのであります。
徳分がなくなったら寿命がなくなるのであります。

その徳分を頂くには神の心を実践することであります。
自分以外の人の心に喜びを与えることは神が喜ぶことであります。
ですから神は、我が俺がの「が」を捨てよ、そこに理が照ると諭されているのであります。
ですから日々は低い心で人にはやさしく自分に厳しく通ることが肝要であります。
神が思いならば人間の心も思いですから理に適う人間の思いは、
即天に通じるのであります。

ありがとうございます                昭和60年12月11日
 4 悟りについて
 
 おみちの中に悟りという言葉があります。そして良く使われます。
「そのくらいの事くらい悟りなさい」「そんな事が悟れないのですか?」
等と使われよく耳にいたします。
しかし悟りという言葉の本当の意味が分かっているのでしょうか、

悟りという言葉の意味は、神の心(水心、低い心)と人間心という高い心の
差を取ること、これが悟りであります。

人間の心が神の心との差がなくなったとき、初めて一つの悟りが
できたのであります。
この心が悟ったことは一つの真理でありますから、誰が聞いてもなるほど、
なるほどと聞けるのであります。

人が聞いて、それは違うよというような事は、本当の悟りでなくまた道理でもありません。

例えば私自身が悟ったことを、一つ書かせていただくと、「言葉」これは
「人間の心と心をつなぐ道具」これが悟りであります。
神が人間言葉を許したのは、人間の心と心をつなぐ道具として許されたのであります。

親孝行、これは親の心を喜ばせること、これが悟りであります。
このように神の心になった時、一つの道理がわかるのであります。

しかし、悟ったからといっても身についた訳ではありません。
心が開け、心が気が付いただけなのでありますから、信条に第三条に、
精神、言語、動作とありますように、その悟りを得たことを一つ一つ実践して
はじめて身に付くのであります。

悟り千筋と申しますように、沢山悟った人は、それだけ道理がわかり、
心が豊かなのであります。
その、悟ったことを沢山身につけることが、成神者だと思います。

文字を覚えるのは頭です、
その文字の本当の意味を悟るのは身体を通して心が悟るのであります。
これが悟りの本当の悟りということであります。

                               昭和60年12月11日
 5 信仰とは
 
信仰とは、親の心を学び、養い身につけることであります。
ことわざの中に「子を持って知る親の恩」という言葉がございますが、
親の恩が分かるのは自分が始めて親になって分かるのと同様、
何事にも相手の悩みや苦しみ、又、痛みは察することは出来ても、
本当の相手の悩み苦しみを知ることは、出来ないのであります。

例えば、目の明いている人の本当のありがたさが分かるのは、
途中で見えなくなった人でなくては分かりません。
これと同様に、親になって見なければ本当の親の恩が分からないのであります。

親と言う字は、立ち木を見る、と書きます様に、親と言うものはいつでも
どこでも高いところからこどもの安否を気遣っているのであります。

これが親の心でありますが、これは人間関係においての親子の関係であります。

信仰で言う親の心とは、、もっと広く大きな心なのであります。
つまり神心なのであります。

神の心とは肉親の親子の関係でなく、総ての人間の安否を気遣い見守る
心なのであります。
その心を養い一つ一つ実践して身につけて行くことが、信仰であります。

しかし人間は我が身可愛い心を持っておりますので、身上や事情が起こると
感謝の心も忘れてしまい自分の身上、事情の解決にのみ心を使います。
そのため人間本来、神によって生かさせて頂いていることも忘れ、
人はどうでも我が身だけはという心になりがちであります。
それでは信仰をもったとは言えないのであります。

信仰をもち親の心が分かれば分かるほど、心が低くなり、
人様に対してはやさしく、親切な人にならなければならない筈であります。

信仰は頭でするものでなく、親(神)の心を自分自身の心で聞いて、
その思いを身体で体得していくのが信仰であります。


 6 悪因縁を切る方法について
 
 悪因縁を切る方法について
人間は皆、神の思い(白因縁)によって生かされているのでありますから、
どんな辛い道中であっても皆自分で、蒔いた種が現象として身上、事情として現れてくる。
その道中でも神に感謝の心を忘れてはなりません。

身上、事情は自分自身の心得違いと理違いによって現れて来るのであります。

心得違いや理違いの心の積み重ねの結果が、因縁となって苦しめられるのであります。

その因縁を切る方法について記しますと、
(イ)その因縁を感謝の心(生かされている喜び)で受止め、
神の理を立てて因縁が切れていくのであります。
その神の理を立てるとは、道理を実行していくことであります。

(ロ)心の理が上がれば切れる、心の理とは神心の理であり、素直と慈悲の心が
湧き実行することによっても切れて行くのであります。

(ハ)自分の真心で切れる 
これは懺悔とその心の実行により真心が神に通じたとき、悪因園が切れて行くのであります。

(ニ)因縁の理を悟り、その逆の方向、つまり神の理に向かって実行していくことに依って
悪因縁が切れて行くのであります。

悪因縁は親神と反対のことを自分の心に命ずる
悪因縁は自分の心を迷わす
悪因縁は自分のの良心と反対の方向を強要する。

 8 努力と因縁
 
努力を尊びなさい、努力の尊さを知っているが努力はなかなか出来ないのは
何故でしょうか?
それは努力が始まると自分にある因縁が苦しみだし、その苦しみが自分の心を
痛めるから努力がなかなか出来ないのであります。

心と因縁は相反するところにありますので、努力の第一歩が一番辛いのは
因縁が一番苦しむからなのであります。
その因縁をのろい超えて努力するためには、強い目的意識と強い意志が
必要なのであります。

その強い意志を育てるにはどうしたら良いかと申しますと、それは自分の心に
誓った事を必ず実行することにより、養われて行くのであります。

例えば一ヶ月教会に日参しようと心に誓いますと、それを一ヶ月間実行することにより
強い意志が養われ、日参によって一筋心がともに養われて行くのであります。

小さな例ですと一日だけタバコをやめようと心に誓ったら、それを実行することであります。
そのことによって意志がだんだん強くなっていくのであります。

努力をすると因縁が苦しむ、さらに努力をする事によって、だんだん因縁が切れて行き
努力の結果はすばらしいことは、皆さん良くご存知のとおりであります。

しかし人間は努力の第一歩の辛さに自分の心が負けてしまい、因縁に負けてしまうので
あります。

これ努力という文字の悟りであります。悪因縁は自分の良心と反対の事を強要する。
これが悪因縁であります。

努力と因縁の関係を図にして書くと下図の通りになります。

  
図のように努力を実行した始めが一番苦しいのであり、一ヶ月たつと努力した分だけ
因縁が切れ努力の結果が残ります。
二ヶ月努力すると更に因縁が切れて、努力の結果がさらに向上し自信が
付いてくるのであります。
この様に実行していけばだんだん因縁が切れて苦しみがさがるのです。
目的が達成されたら、そこには因縁がありませんので、良い結果だけ残るのであります。

これが因縁の努力の関係であります。
ありがとうございます。

                               昭和60年12月12日
 9 心の高さについて
 
良く教会の内で耳にする言葉に、心の高低の声を良く耳にいたします。
心の高低は、何を基準にして高い低いというのでしょうか、
御考えになったことがありますか?

本当の意味が悟れて使われているでしょうか。
これは親神の心、低い心水心を基準にして、心の高低の言葉が出来たのだと思います。

人間は神の心(水心)より低い心の持ち主は、一人もいないといても過言ではないと思います。
ご承知のように水心とは、どんな心の持ち主にも合わせつ接ぐことのできる言葉であります。
その水心よりひくい心には、人間である以上なれないと思います。

しかし現在の心より低い心にはなれると思います。

例えば悟りをひらく、これは水心になったとき初めて道理がわかったのであります。
また、親神は三歳心になりて来い、とも申されております。
三歳の心には邪心がない、そして素直な心のであります。
そして誰にでもあわせるこころなのでありますから、三歳心【子供の心)は低く神に非常に
近いのであります。

普段つかわれている心の高さとは、自分の心を中心にして、相手の心の高さと
云々しているのではないかと思います。

人間はみな、心のものさしをもっていますから、そのものさしですぐに測ります。
その心のものさしは知恵や経験、常識等であり人間各個人個人皆違うのであります。

そのものさしで相手を測ってしまう、それが自分の心に入ってしまうから、
何時でもその人をその目で見てしまいます。
その為に大きな過ちを犯してしまうのであります。
神の心の水心は低い所、低い所と合わせる心でありますから、
この水心が基準でなくてはなりません。

例えば道理を聞いて、あの人の言っていることはおかしいと思う、
その心は高い心なのであります。
道理は神の心であり、誰が聞いても成る程、成る程の理だからであります。

ではその道理からどのくらい高いのか、と言っても、その高さが何センチなのか
何メートルなのかは人間には分からず神のみぞ知るところなのであります。
ですからこれは非常に難しい問題であります。

人が人を裁くことはない、神が裁くのでありますから、人の心の高さを取り締まる
必要は無いのですが、つい一言がでてしまう。それだけ人間は心が高いのであります。

その高い心をとって、低い心になるためには、「はい」と言う素直な心を実行して
行くより無いのであります。
そして、相手の話を良く終わりまで聞いて、それから相手の言っていることが
間違いであったら、そうですね、でも……、だと思いますが、
という様にまず相手の心に合わせる心を養っていく以外に方法はありません。
これが水心に近づく第一の方法と思います。

人間は見たり聞いたりしながらも自分のものさしで相手を測ってしまいます。
その見聞きによってその事が不足に思えること、すべて自分の心が高いのですから、
気をつけましょう。

不足に思うことはすべて自己中心の心であります。

ありがとうございます。


 10 えー?しかし?そうですか?でもねの言葉について
 
神の思い、つまり道理を取次させて頂いて、相手の方から上記のような言葉が出たら、
それは相手の心が高いのですから、自分の方が言葉をやめて聞かしていただきましょう。

聞かせて頂きますと言う心は、水心より出るものです。心を高くして聞かして頂きましょう、
という言葉は心がこもっていないはずです。こういう時は自分の心に波風が立っている時です。
波風とは感情的になっているということであります。
この心では理の取次はできません。

人間心の高い心から水心の低い心に流れるのが道理です。
ですから、相手の人の言葉を低い心、又、思いやりの暖かい心で聞かせて
いただきまうという心が相手の心に通じ、自然と話しやすく感じ、悩み事、
疑問に思うことを話せるのです。

理は学んだだけでは身に付くものではありません。
理と現場、二つ一つが天の理、この二つが身についてこそ、
一つ一つ成神への道であります。
人間は自分に厳しく、人に寛大であれば良いことは、良く分かっておるつもりです。
しかし、本当の姿は、自分に寛大に人に厳しい、これが現実の姿だとおもいます。
信仰をもったら、この矛盾をなくすことです。

言うは易し行うは難しの、諺どおりであります。

理の取次をさせていただいて、上記の言葉が自分や相手から知らず知らずに
出てきたら「分かったほうから治めよ」のお言葉どおり、自分のほうが言葉を治めて
低い心になって聞かせて頂きましょう。そうする心によって、相手の心が軽く楽に
なることを忘れずに、話上手より聞き上手ということを忘れずに。

                               昭和60年12月17日
  
   信談 
    話し上手より聞き上手、反省させられる言葉でした、
   S先生は神様の御取次をされるかたへこのメッセージを書かれていますが
   これは、日常の会話の中でも大切なことだと深く感じさせていただきました。
   先日友人の悩みを聞きに遊びに行こうと、出かけたことがありましたが、
   妻から今日は聞き役だよ、と念を押されたにもかかわらず、気が付くと自分の意見を 
   ばんばん方って、自分が気持ちよーく友人宅を後にしてしまうことがありました。
   まだまだ水心に近づくのは遠いです(反省、、、。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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